小説家ってのは、どうあがいてもなってしまうもんだ、って大物小説家の人が言ってた

田中芳樹大先生の言葉を引き合いに出して自分語りをしてみる回、その2です。(たぶんその3はないです)

その1 → 予定ってのは、遅れ具合を知るために立てるもんだ、って大物小説家の人が言ってた

ちなみに、旧ブログの記事リストを除くと、この記事が当ブログの99記事目です。いよいよ3ケタ突入します! (ちょっと意識してる)

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田中芳樹大先生の言

うろ覚えですが、何かの対談でおっしゃっていたのかと思います。

「小説家にどうやったらなれますか?」との問いに対して、「努力してなるような物じゃない」と答えていました。
小説家になるほど文を書くような人は、どんな状況に置かれたって書いてしまうし、それが積み重なれば小説家になってしまうんだ、というような話でした。
素質というより、業のような物があるんだ、とおっしゃりたいんだな。と感じた記憶があります。

また別の方の言

上記の田中さんの言い方と、対になる気がする言い方があります。「誰でも一生に一本は長編小説が書けるものだ」という説です。
誰にでもそれくらいの人生経験があるんだ、的な話だったと思います。

で、(すぐ話が戻りますが、)田中さんが言う「なってしまう」のは、こんな一生に一本レベルではなく、ご本人のように何作も生み出すような作家のことを言ってます。明らかに。
たとえば手塚治虫さんなどは、描いても描いてもアイデアが尽きることはなかったそうです。小説とマンガの違いはありますが、「なってしまう」の最も極端な例の一人は、手塚大先生なのだろうと思います。

ひるがえって当ブログ

自分のブログや小説サイトが、今ちょうど田中さんの言うような調子かなあ、と思うのです。「書いちゃってる」状態といいますか。小物すぎて一緒くたに話すのも恥ずかしいレベルではありますが、まあともかく。

私は幼稚園の頃から「お話」を作ってましたし、中学~高校ではマンガ家・小説家に憧れました。医療系に進路を決め、大学~就職と時間がない時期も、隙があれば何か書いてました。小説だったり考えの羅列だったり、色々です。
時間や集中力の問題、あるいは完璧主義の問題とかで、書けない時期は本当に外に出せなかったですが、書きたい・表現したいという気持ちは、変わらずずっとある気がします。

いま、自由な時間が増えて、家事はするし、妊娠に向けた体作りもするんですが、空いた時間で何してるかっていうと、文章やプログラムを書いてます。
たまに昼食も忘れて書いてます。(食え)

自分は根本的に表現が好きなのかなあ、と改めて思います。

ブログは、基本的には記事ごとに完結しますし、完璧を求めすぎなくても平気なので、表現の勘を養う・取り戻す足掛かりとして、すごく良い手段だ、とも思います。

この調子で、小説家かどうかは分からないけど、表現者的な何者かになって行きたいなあ、と思うこの頃です。
夢って、無理に諦めなくてもいいのかもしれません。

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